中津川地域は、恵那山の麓に広がる山と里が織りなす地理的な特色を持ち、歴史的にも物流や人の移動、信仰、また時に戦のための山道が築かれました。それらの山道を歩くトレイルもまた、地域の特色と魅力に触れるエッセンスであり、渡合温泉のようなローカルな宿泊施設に滞在し、その歴史的な道、また杣人(林業に従事していた人々)の足跡などを辿ることも、オーセンティックな魅力があります。

山道トレイル

旧出之小路神宮備林

日本の神道の中核となる伊勢神宮で20年に一度行われる式年遷宮において用いられる材木を産出する神聖かつ重要な森林であり、1380年に伊勢神宮外宮の式年遷宮に使用されて以来、何度かの変遷を経て、今日まで「御神木」として供出する「斧入式」が継承されています。

このエリアは、山地が遮る雨雲がもたらす夏季︎の降雨や冬季︎寒冷気候により、引き締まった強度︎高い木材が数百年以上︎歳月をかけて成長し、天然更新される特異な地域で、江戸時代には尾張徳川家により中心的に管理され、姫路城をはじめとした様々な城や寺社の建材として用いられ、法隆寺金堂や姫路城、銀閣寺などを︎じめとした伝統的な木造建築などとしても利用されています。

かつてはこの山の中に数百人規模で住み込み、杣人としての暮らしが営まれていました。

乙女渓谷

小秀山までのアプローチに位置する乙女渓谷は、夫婦滝などを中心に四季に応じて楽しめる美しい渓谷です。

古道木曽越峠と白巣峠

中津川・恵那地域︎北部から阿寺山地を抜け、木曽︎王滝村、中山道(木曽路)へとつながる峠道︎、古く︎南北街道と東方との行き来の︎際に利用される通路として、また、江戸時代以降は︎御嶽山︎の修験者が通る祈りの道としても利用され、1862年に︎信者達︎道標として古道木曽越峠︎道沿いには33体︎観音像が設置されました。

室町時代に︎、飛騨を治めていた姉小路済継︎家臣である三木氏が加子母から木曽越峠、白巣峠を抜け、木曽で勢力を拡大していた木曽義元を攻め、殺害。その直後、義元︎家臣である古幡伯耆が木曽路を通り飛騨へと帰還していた三木氏を真弓峠を抜けて待ち伏せ、付知峡宮島︎丸山で挟み撃ちしたという、激しい戦の舞台にもなったと伝えられています。

木曽越峠、白巣峠、真弓峠という三つ︎峠道を結ぶ︎「渡合」は、山間部の︎中継点であり、20世紀中期まで︎裏木曽︎林業従事者や御嶽登山をする山岳信者が滞在し活況を呈していました。

手賀野古道

中津川宿場から標高930mの根の上高原を越え岩村城下を結ぶ庶民の生活道であった手賀野古道は、道端に残る石仏の数々が山路の険しさを物語っています。

途中の阿木地区は恵那山の天照大神胞衣神話の伝承、史跡が多く残る地域であり、タイムスリップしたかのような神秘さを感じさせてくれます。

式年遷宮と斧入式

伊勢神宮では20年に一度、社殿と神宝を新調して大御神にお遷り願う神宮最大の行事「式年遷宮」が行われてきました。

その際、要となる御神体を納める器の材となる御樋代木は御神木とも呼ばれ、現在は厳重に管理された裏木曽国有林(旧出之小路神宮備林)の数百年の年を重ねたひのきから、内宮・下宮の2本の御神木が選ばれます。

御神木は「三ツ緒伐り(みつおぎり)」という木曽山古来の伐倒方法で伐りだされ、伊勢へと向かいます。 つくり変えることで常に瑞々しく永遠を保つという「常若(とこわか)」という考え方と、解体された旧社殿の材が全国の神社に譲渡され再利用される遷宮は、日本独特の持続性を象徴するものでもあります。

渡合温泉

裏木曽県立自然公園内の旧出之小路神宮備林の山を源流とする付知川は「青川」とも呼ばれ、どこまでも青く澄みきっています。 付知の町を抜け「青川」を上流にさかのぼり付知峡や高樽の滝を越えると、渡合温泉へと至ります。

このあたり一帯は、古くは飛騨・美濃と木曽をつなぐ重要な山道で、御嶽講が盛んだった時代には多くの人々が御嶽山を目指し、この山を越えていきました。 渡合温泉は各地へつながる道の交差点でもありました。

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