中央アルプス(木曽山脈)の南端に位置する独立した山としての風貌を持つ恵那山は、日本に観光としての登山を伝えた一人である英国の宣教師、ウォルター・ウェストンの著書『日本アルプスの登山と探検』(1896、英国で出版)や、深田久弥の著書『日本百名山』(1964初版)に取り上げられるなど、古くから登山愛好家によって紹介されてきた名峰です。特に中津川に鉄道駅が開通した1902年以降、壮年者が一度は登るべき山として知られ、駅前に登山案内所ができるまで賑わいました。

登山道

ウェンストンも愛した恵那山とともに

恵那山

ウェストンが登ったのは、中津川を遡り恵那神社前宮から東の山頂奥宮へと登る険しい前宮ルートでしたが、1959年によりなだらかで安全な黒井沢ルートが開通しました。

また深田久弥は、中津川市と長野県阿智村が共同で運営する山小屋「萬岳荘」に宿泊し、神坂峠から恵那山を登る神坂ルートで登山。今は、広河原ルートも加えた4つの登山ルートが楽しめます。

恵那山は中央アルプスや恵那盆地を望む眺望の美しさが楽しめるとともに、亜高山帯植物の宝庫となっており、大正時代に地元の青年団「川上村青年団」が発行した『恵那山登山案内』では、恵那山八景として「①前宮のホトトギス」「②物見の松の眺望」「③行者越の奇岩」「④空八丁の古樹」「⑤頂上の紅葉」「⑥富士山の日の出」「⑦太平洋の落日」「⑧天竜川の水光」がその美しさを楽しめるポイントとして紹介されています。

阿木山

山を神聖視し崇拝の対象としてきた日本人にとって、山々は信仰や修行の対象となり修験道も盛んでした。

その山々を徒歩で越えていく旅は、常に危険と隣り合わせで命を落とすことも多くあり、街道脇には山の神に道中の無事を願った祠や、行き交う旅人を見守った道祖神が今も数多く祀られています。

明治時代に一度廃止令が出された修験道ですが、1843年に現在の中津川市坂下町に生まれ、修験道の伝統の再興や伝播を行なった林実利(はやしじつかが)の功績もあり、今日でも御嶽や恵那山を中心に、深い山の中に修験道の伝統が根付いています。

現在も阿木長楽寺の住職、戸塚智尚さんを中心に、恵那山や阿木の山々で修験に取り組まれ、ガイドサービスも提供されています。

小秀山

小秀山(1982m)は、阿寺山地の最北端に位置し「日本二百名山」にも選定されています。 加子母地区から小秀山へのアプローチには「乙女渓谷」と呼ばれる絶景の渓谷が続き、季節ごとの植物や清流 を楽しみながら歩くことができるルートです。

阿寺山地の北部に位置する小秀山は、その山頂から御嶽を始め、阿寺山地の山並みを眺望できる山です。

その土壌は濃飛流紋岩と苗木花崗岩により形成されており、前山から流れる白川が侵食して作り上げた渓谷と幾重もの美しい滝は、訪れるに値するものです。

同地は、裏木曽の旧出之小路神宮備林の一帯に位置し、江戸時代の神宮備林を管理するために設置した地点確認のための目印を目にすることもできます。

恵那神社

日本では地域︎共同体と氏神が密接に関連した社会単位として︎農村集落が各所に存在していましたが、特に7世紀以降に始まる律令政治︎時代において、社会を統治するため︎手法として、神社を階層化して権威付けをし、日本の伝統的慣習を生かした統治を行う手段が講じられてきました。

当時︎法律規定文書であった『延喜式』(905)において︎、宮中︎管轄下にある神社を「式内社」として位置付け、各地︎氏神を束︎ねる神社として︎役割が与えられています。

恵那神社は中津川地域の式内社であり、日本︎神話に登場し皇室︎祖神ともされる天照大神︎胞衣(へそ緒)を納めたという伝説を持つ恵那山を祀る神社でもあります。

阿木長楽寺

阿木川の源流に位置する阿木の山々には、その入り口に風神神社があり、参詣の路傍には今も無数の石仏が残されていることから、多くの行者がこの道を往来していたとされています。

阿木長楽寺はその玄関口に位置し、平安時代の弘仁年間(810年~824年)とされています。

境内には樹齢1100年と言われる大銀杏の大木が戦国時代の戦火を抜けて今も秋には美しい姿を見せます。

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